文化元年(1804)~慶応元年(1865)
簡単な紹介
尊攘を訴えた幕末の急進派「天狗党」の総大将
ロケ候補地
弘道館
ストーリー
武田耕雲斎は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭のもと、藩政改革派・尊王攘夷派の重鎮として藩政を支えた人物である。斉昭の信頼も厚く、藩校弘道館の造営に携わるなど藩政の中心で活躍した。
尊王攘夷を訴えて幕府と対立した急進派「天狗党」の総大将として知られる耕雲斎だが、当初から天狗党の頭首だったわけではなく、元治元年(1864)藤田小四郎を中心に筑波山で挙兵した段階ではむしろ時期尚早と諌める立場であった。
天狗党は、その動きを危険なものとして追討にあたった幕府と、幕府に応じた水戸の保守門閥派(諸生党)とも対立し、その争いは藩内外に大きな混乱をもたらした。
天狗党は徳川慶喜(斉昭の七男)を頼って、自らの主張を朝廷に訴えるために京都を目指し西上する。複数の勢力が個別に行動していた天狗党は、ここでその指揮系統を一本化し団結して行動するため、武田耕雲斎を総大将とする組織編制を行ったのである。
やがて幕府の追討軍の圧倒的な兵力に天狗党の勢力は次々に降伏する。耕雲斎も朝廷に訴えを告げることはついに叶わず、最期は敦賀で加賀藩の追討軍に降伏し、多くの同志とともに処刑された。
墓所は敦賀市と、水戸市見川町の妙雲寺にある。
主な関連人物
徳川斉昭、徳川慶喜、藤田小四郎
主な文献
『水戸の先人たち』(水戸市教育委員会)2010年
『水戸市史 中巻(五)』1990年