文政12年(1829)~元治元年(1864)
簡単な紹介
水戸藩天狗争乱の犠牲となった宍戸藩主
ロケ候補地
弘道館
ストーリー
松平頼徳は、文政12年(1829)4月3日、宍戸藩8代藩主頼位の長男として生まれた。
弘化3年(1846)10月、父頼位が病気のため隠居し、17歳の頼徳が藩主となった。
元治元年(1864)3月、水戸藩を抜けた藤田小四郎や田丸稲之衛門ら60人は、筑波山に尊王攘夷をかかげて天狗党の乱を起こした。幕府は天狗党の動きを警戒して、天狗党追討軍を栃木・茨城方面に出し、天狗党と幕府軍・諸藩軍は高道祖村(下妻市)のあたりで戦争となった。
天狗党の乱は、水戸藩9代藩主斉昭の天保の藩政改革を進めた藤田東湖・会沢正志斎の唱えた尊王攘夷を実現しようとする天狗党と、これに反対する幕府の開国政策を支持する諸生派から起こった。
水戸藩10代藩主徳川慶篤は、幕府の要請をうけて、一門の宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に派遣して、天狗党の争いを鎮めようとした。頼徳は水戸城に入ろうとしたが、水戸城の諸生派市川三左衛門らに拒否されてしまう。何度か交渉がもたれたが、鉄砲のうちあいになり、頼徳一行は入城をあきらめた。
頼徳は責任を果たせず、いったん江戸へ帰り事情を報告しようとしたが、幕府軍に捕まり、水戸に連行された。
幕府軍は頼徳を「賊魁」ときめつけ、頼徳と父頼位の官位を奪い、宍戸藩をとりつぶした。その後、頼徳は切腹をさせられた。
天狗争乱はその後も続き、果てしない殺し合いとなった。明治維新を前に水戸藩、宍戸藩の悲劇は目を覆うものばかりであった。
明治になり、天狗党が正義を認められ、宍戸藩の復興が認められ、松平頼位が再び藩主となった。頼徳はじめ天狗党の犠牲者は、
靖国神社に合祀され、頼徳には従三位が追贈された。
主な関連人物
武田耕雲斎
主な文献
かがやく笠間の先人たち